名ばかりジャーナリズムの暴力団擁護論 VS 審査マンが超一級に期待する「調査報道」 ~コトの本質は米国の金融制裁にある~

ジャーナリストではない筆者が「ジャーナリズム」を語る実力もなければ資格もないが、一人の読者(情報の受け手)としてジャーナリズムに期待していることは「公平中立」だ。

 

ジャーナリズムはそもそも反権力性を帯びるべきものであり公平中立など不要だと主張する識者もいる。商業ベースでのジャーナリズムはスポンサーの影響から逃げられないのだから公平中立など無理だという識者もいる。そういった主張の存在は承知の上で、やはり「公平中立」がジャーナリズムにとって最も重要だと思う。

 

自らの主義主張がまずあって、そのフィルターを通してのみ取材活動を行い、得られた情報を自らの主義主張に沿って分析評価する。筆者の目から見れば、そのような方々はジャーナリストではなく「活動家」であり、そのような方々の書く記事はジャーナリズムではなく「政治的意見」として峻別している。

 

企業が暴力団等との取引を排除していることの是非を「人権」を持ち出して論ずる記事をよく見かける。しかし、ほとんどの場合、こうした記事や論調はジャーナリズムの装いをしているものの、公平中立を欠いており、筆者にとってみれば、ジャーナリズムでも何でもない擁護論(政治的意見)にしか見えない。

 

「銀行口座を持てない」「ライフラインを止められる」などの「苦境」を取材し、これらの事象は基本的人権に反するものだとして暴排を批判的に論ずるのがお決まりのパターンである。この種の記事は、弁護士にも一応取材し「こうした契約条項は本来は憲法違反である」等の言葉を引き出して論旨の補強材料にしている。ただ、弁護士も様々なのだから、公平中立のジャーナリズムであるならば、意見の相違する弁護士にも取材して、その見解も評価の天秤に載せるのが筋であるところ、そういった記事はあまり見受けられない。

 

■コトの本質は米国にある

 

企業として暴力団等との取引排除を徹底しなければならないのは暴排条例等の遵守もさることながら、暴力団が米国の金融制裁の対象になっていることが影響として大きい。

 

すなわち米国は、日本の暴力団を自国の安全保障および外交政策上の脅威と見なして資産凍結の対象に指定している。2011年7月にオバマ大統領が発令した大統領令13581において日本の暴力団は“YAKUZA(a.k.a. BORYOKUDAN; a.k.a. GOKUDO)”と包括的な形でロシア・イタリア・メキシコの犯罪組織と共に「国際犯罪組織Transnational Criminal Organizations(TCO)」として指定された(a.k.a.とはalso known asの略で「別名~として知られる」の意味)。

 

この大統領令では、暴力団などのTCOに対し、物質的・資金的・技術的な支援をした者やモノやサービスを提供した者、あるいはTCOにより所有・管理される者やTCOのために活動を行う者(フロント企業など)も財務長官により制裁対象として指定され、その在米資産が凍結される旨が記されている。こうして財務長官により新たに追加指定される者に対して同様の関係を持つ者も順次追加指定されうるという構造だから原理的に金融制裁の対象者に限度はないことになる。

 

例えば日本のガス会社が日本の暴力団事務所や暴力団のフロント企業などにガスを供給した場合、TCOの支援者として米国の制裁対象になる恐れがあるということだ。万が一そうなれば、ガス会社は米国から原料である液化天然ガス(LNG)を輸入できなくなる恐れがあるほか、その決済のためのドルも使用できなくなる。そうなるとガス会社は事業を停止せざるを得ず倒産の危機に陥るだろう。当然、ガスの供給を受けている家庭や企業にも甚大な影響が及ぶ。これこそ「人権」問題だろう。

 

暴力団との取引を排除することの是非を人権的に論じたいのであれば、こうしたガス会社(その社員と家族)やガスの供給を受けている家庭や企業(その社員と家族)など企業サイドの「人権」をも天秤に載せた上で、もう片方の暴力団側の「人権」と比較衡量して論ずるのが公平中立なジャーナリズムであるが、そのような記事は見たことがない。

 

たいていは暴力団側のみを天秤に載せて(擁護のための)憲法論議をしている。

 

しかし、繰り返しになるが、暴力団は米国の金融制裁対象であるのだから日本の憲法論議に終始しても意味がない。仮に日本国内で暴排の約款が違憲だとされても、暴力団は依然として米国において安全保障・外交政策上の脅威とみなされて金融制裁を受けているのだから、企業(特にドルを使用する企業)としては引き続き取引を遮断することを望むだろう。「違憲判決」に基づき国家(日本)が日本企業に対し暴力団との取引を強制するようなことがあれば、その取引行為が米国の制裁に抵触し、日本企業の私有する在米資産が凍結される可能性が(建て付けとして)ある。これこそ国家による財産権の侵害に他ならず憲法違反ではないか。

 

ジャーナリズムであるならば、米国の金融制裁のあり方やその影響を受ける企業サイドの事情も取材し、分析評価における天秤に載せるべきである。そうではなく、暴力団側の「銀行口座を持てない」「ライフラインが止められる」等の「苦労」ばかりを取材し、それだけを天秤に載せ、「人権侵害だ」「憲法違反だ」と記事をまとめてみても、それはジャーナリズムでも何でもなく、暴力団の擁護論であり、暴力団側に立った「政治的意見」である。もちろん思想・表現の自由があるから、そのような記事を書くのは自由であるが、筆者としては、それは公平中立を欠いており、ジャーナリズムでは全くないと思う。

 

■ジャーナリズムへの期待

 

ジャーナリズムの冠をつけてこの問題(暴排の是非)を論じたいのであれば、次のような論点まで射程が及んで欲しいものだ(企業審査に従事する読者としての期待と関心)。

 

まず、憲法論議をしたいのであれば日本国憲法だけではなく、米国連邦憲法に照らして米国の金融制裁をどうとらえるのかという論点が欲しい。例えば、金融制裁(資産凍結対象者としての指定)は司法手続ではなく行政手続で行なわれるに過ぎないのに、刑事罰を凌駕するほどの甚大な影響を持つ。これは米国の憲法に照らしてどのように了解されているのか。そして制裁対象者と親密だと米当局に行政的に認定された日本企業の在米資産が凍結されることを日本国憲法に照らしてどのように了解すべきなのか。

 

そもそも米国の金融制裁はなぜ影響力があるのか。その理由は「米ドル」にあるから国際通貨体制における米ドルの覇権といった問題も射程に入れて欲しいところだ。日本の同盟国である米国の安保・外交政策と矛盾する政策をとることはできないのだから、米国の金融制裁と日本人の人権とを論じるのであれば日米関係や日本の安保・外交のあり方まで射程を拡大するべきだろう、等々。

 

気の遠くなるような調査だ。

 

しかし、逆に、ここまで調査ができて公平中立に分析評価できるのであれば、反社勢力分野における超一級の「調査報道」に仕上がるのではないか?

 

一介の審査マンに過ぎない筆者にはこのような調査をこなせる力量は無いからジャーナリズムに期待するほかない。もしこのコラムの読者に米国政府(財務省等)や司法関係にも人脈を持つ(取材できる)公平中立なジャーナリストやマスコミ関係者がいらっしゃれば、テーマにしてみてはいかがであろうか?

                                             以 上