自分を信じるな。人間は「弱い」生き物。

「自分を信じろ」

 

アスリートなどがよく言う格言である。

 

ただし、経営の世界では危険な発想である。

 

自分を信じ切っている経営者がいかにヤバイか。

 

コンプライアンス違反や倒産の事例を見るとよくわかる。

 

「俺は何でもできる」「俺なら乗り越えられる」「俺に不可能はない」「俺のやり方が正しい」

 

こうした信念を持つ経営者は、自分や自社のキャパシティを客観的に評価できない。客観的に見て無理なのに、できないのを経営幹部や管理職の責任にしてパワハラする。それが下のレイヤーまで波及して、パワハラ体質のブラック企業になりさがる。

 

そういう企業では、数字が足りないと、まず社長のすぐ下の幹部が徹底的に虐められる。虐められ思考停止状態の経営幹部がその下の中間管理職に同じようにプレッシャーをかけ末端に波及する。

 

上司への忖度と恐怖から目標数字を「必達」するため架空売上など粉飾に手を染める。裏金を作り贈賄して仕事を獲得する。法定の手続を省略したり下請を虐めたりして利益をねん出する。それがもとで時に命に関わる重大な事故が発生する。

 

自戒できない独善者。企業審査において経営者の見極ポイントの一つである。世襲の二代目が勘違いして、こうした全知全能の神のように振る舞うのは目も当てられないが、苦労を重ねたはずの創業者も成功に酔いしれて過去の失敗や未熟だったころの立ち振る舞いを忘れて独善者になり果てていることもある。

 

■人間は「弱い」 

 

そもそも一個人としての人間は「弱い」ものである。 

 

そういう前提で企業を経営し、内部統制していくことがコンプライアンス重視の時代に合っていると思う。

 

「売上をあげろとは言ったが、不正をしろとは言っていない」

 

よく聞く弁明だ。

 

これは人間は、どんな時も倫理的に振る舞うことができる「強い」生き物であるというのを前提としている。

 

しかし、人間は「弱い」という前提に立てば、「プレッシャーをかければ部下が不正をしかねない」というリスクを想定できるはずである。この場合、内部統制の中でフォーカスすべきは部下の不正行為の検出というより、その原因である上司やチームによるプレッシャーの有無である。

 

プレッシャーの程度について議論がありうるが、人間には「ストレス耐性」なるものは存在しない、という前提に立つのがより安全だと思う。筆者は医者や心理学者ではないが、仕事で不祥事や事件を見聞するたびに、つくづくそう感じる。一見打たれ強そうに見えても(そう自覚していても)、どこかしらにストレスの捌け口は必要なのである。

 

たまたまAという社員は休日のスポーツで発散できるが、そういうことができず苦しむ社員Bもいる。あるいは下請を虐めることでストレスを解消し、水増し請求・キックバックさせ、その裏金で夜の街を豪遊して憂さを晴らす社員Cもいる。うまくストレスに対処できる社員Aを前提としてプレッシャーの程度を判断するようでは内部統制は脆弱と言わざるを得ない。

 

「自分を信じるな」「社員を信じるな」

 

そんなんでは社員が互いに疑心暗鬼になり、職場が暗くなり、モチベーションが上がらず、会社の業績が悪くなり、倒産してしまうじゃないか。そのような批判もあろう。

 

ここでいう「信じるな」とは、個々人の「判断力」「経験値」「ストレス耐性」「倫理観」などに依拠するなということである。

 

個々人としてこれらの要素をいついかなるときも備えているという前提は捨てるべきであるということだ。

 

個々人が自分の「判断力」「経験値」「ストレス耐性」「倫理観」を素直に見つめなおす機会を醸成するのが重要である。もちろん経営陣を含めてだ。そしてそれを正直に共有し、互いに凹凸を埋める風通しのよさがあれば良い企業である。

 

個々人に「強さ」を求めるのが経営ではない。

それは単なるモラハラである。

 

イズミ